六 読書と求道
人生を生きる原動力
さて、読書という営みは、このわれわれの人生において、一体如何なる位置と比重を占めるものでしょうか。
すなわち、人生における読書の意義と価値について考えてみたいと思います。
それに先立って、書物とは一体何なのかということですが、客観的に言うと書物は、この無限に複雑多彩な人生ならびに現実界の反映であり、その縮図であるといえるでしょう。
したがって、書物を読むということは、そうした無限に複雑な人生ならびに現実界の一端について知る上で最適な一便法と言えます。
もっともこれは読書の意義について、いわば巨視的大観の立場にたって説明したのであって、主観的にはどういう価値があるかというと、
1 われわれ自身がこの二度とない人生をいかに生きるかという、人間の生き方を学べるということ。
2 自己の職業に関する専門的知識を吸収できるということ。
3 真の意味における広く豊かな教養を身につけること。
ではないでしょうか。
そしてこれがまた、われわれにとって必要な読書の三大部門と言えるでしょう。
ですから、これらの三大部門については、たとえそのうちひとつの部門だけでも読まないよりはましでしょうが、理想としては、これら読書の三大部門がほどよい調和を保つということこそ、望ましい読書態度というべきでしょう。
ところが一般的には、この三大部門のうち、なんとしても中心的基盤というべき読書は、そこに自分の人生の生き方を見出し、人生を力強く生きる原動力をも汲み出しうるようなものでなくてはならないと思います。
世の中にはいわゆる読書好きという人があって、読書をもっていわば一種の娯楽なしは時間つぶしというような興味本位の読書家も、多くの人の中にはいます。
しかし、そういう人でさえ、読書によってこの人生の深い味わいがしみじみと味わえるような読書に至らねば、真の読書とは言いがたいと思うのです。
したがって、また真の良書とは、人生の理法を明らかにし、人生を生き抜く真の原動力を与えるものではなくてはならぬわけです。
さて、この本は良書かな?
良書の選択
ところでこの「良書の選択」ということですが、これがまた容易ならぬことなのです。
私の考えでは、このように「書物の選択」さえ誤らなければ、読書も意外にラクなものといえ、少なくともその人に読もうという心がけさえあれば、読書という事柄は、ほとんど他に問題ないと言ってもよいかと思うほどです。
私から申すと、読書法などといっても、結局は書物の選択を誤らないということが根本の第一義であって、これさえ誤らなければ、読書の問題の8〜9割までは片付くといってもよいと思います。
そこで問題は、ではどうしたら「書物の選択」が巧みになるかという問題ですが、これは結局読者自身が、良書を鑑別する鑑別眼というか、真の眼力を養う他ないと言えるでしょう。
しかしこれはまた、生涯にわたる人生修行のひとつでもあって、本来至難な技なのです。
というのも、読書の鑑別眼を身につけるということは、その人自身が人生ならびに現実に対してある種の洞察を身につけなければ、実はできないことだと言ってよいからです。
このような最終的な理想を言うと、かえってますます読書嫌悪症にかかる結果になりかねないのですが、これが真実です。
そこで大事なことは、身近に適当な指導者がっって、良書の選択や紹介をしてもらえると、まことにありがたいわけです。
私も過去30有余年にわたり一人雑誌(初めは「開顕」、いまは「実践人」)の刊行を続けてきたわけですが、その誌面には必ず「佳書紹介」欄を設け、また講演の機会毎に一貫してこの読書指導の方針を貫いてきたわけです。
求道入門
さて、読書について私が常にお伝えしていることは「書物は人間の心の養分」というわけで、肉体を養うために毎日の食事が欠かせないように、心を豊かに養う滋養分としての読書は、われわれにとって欠くことのできないものなのです。
ですから人間も読書をしなくなったら、いつしか心の栄養不足をきたすと見て差し支えないでしょう。
同時にまたその反面、滋養のとりすぎにも問題があるわけですが、こういう人もいわゆる読書家と言われる人びちの中にもあるわけで、これは真の実践的エネルギーにつながらない読書だからであります。
「論語読みの論語知らず」というコトバがありますが、そうした種類の読書人に対する痛烈な批判でありまして、日常の実践に消化しない読書家にとって、これほど内省すべきコトバはないとも言えましょう。
しかし一方から言うと、真に実践につながらないとは、その人自身が真の自覚に達していないとも言えるわけで、それは言い換えると、真の読書にとうてつしていないからともいえましょう。
読書態度の確立
物事はすべて一長一短でありまして、このように読書についても短所の一面がないわけではありません。
いやしくも道を求め、道を歩まんとする求道の士にとっては、読書は欠くことのできない求道の門であり、同時にまた奥の院であるとも申せましょう。
ところが今日「求道」というコトバでさえ、縁遠いコトバになりつつあるとも言えましょうが、しかし真の「求道」とは、この世に「生」を享けて、二度とないこの人生をいかに生きるか、という人生の根本問題と取り組み、つねに真剣に自らを引き締め歩もうとする人生態度と言ってよかろうと思います。
ですから私の読書論は、先程もお伝えしたように、何を読むかという「書物の選択」と共に「いかに読むか」という読書の態度が常に問題になるわけであります。
と申しますのも読書は、テレビを観るにくらべて、いかに内的緊張を要するか、改めて申すまでもないことであります。
ですから、毎日一定の時間を読書に打ち込むということは、いかほどの自己規制と自己克服を要するかを考えますと、求道としての読書の意義についてもお分かり預けるかと思います。
私は「一日不作一日不食」という禅門のコトバにならって「一日不読一日不喰」というわけで、何らかの支障によって、読書の最低基準が果たされなかった日は、次の食事を一色抜くくらいの覚悟が望ましいと思うのであります。
こうなりますと、読書の入門が、そのままある意味では、道への入門であるという意味もお分かりいただけようかと思います。
父としてのテレビ対策
ところで今日、子女の教育わたくしの深憂に耐えない問題は、一億総白痴化ともいえるテレビ問題でありませて、今こそテレビ対策を各ご家庭において根本的に確立することこそ、何よりの緊急事だと思うのです。
たとえば、
1 テレビを至近距離で見せない
2 視聴時間を決めて一定時間に制限する
3 子供部屋には絶対テレビを置かない
その他、週に一日「テレビの断食日」を設ける等、ご夫婦でよくご相談の上、テレビ対策を取り決めていただきたいのであります。
ところで家長であるお父さん方に特にお願い申したいのは、一日の勤めを終えて、夕食後のひとときや休日に、寝転んでテレビを見るという気持ちはよくわかりますが、しかし今日のようなむつかしい世相においては、子女の教育上、また家長としての権威の上からしても、寝転んでテレビを見ることだけは、ぜひともおやめいただきたいと思うのです。
というのも、今や新聞誌上でご承知の通り、我が国の家庭教育は非常時代に到っているわけで、父親としてこの子女の教育を慮り、家庭の危機に処していただきたいと特に申し上げる次第であります。
「森信三先生 父親人間学入門 6」 寺田一清著
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読書は心の養分と森先生はおっしゃいます。
私にとっては人生の先達、哲人たちが人生をかけて悟った、気づいたことを自分の中に取り入れて、より良く生きるための糧です。
そういうと養分と同じなのかもしれませんね。
妻は読書の習慣がないので、今でもほとんど本を読みません。
ただ、本の大切さはわかっているようで、息子に絵本を読ませたり、お話を聞かせることはやってくれています。
まだ3歳にもならないので、おとぎばなしや、昔話、絵本を読ませて、まずは本を読むのが面白い、好きという感覚を持ってもらえそうです。
小学生、中学生となってくると読む本が変わってくるので、私たち、親が選んあげるというのもひとつ必要なのだと思います。
その時は、私がそれとなく選んで、妻から息子に渡すというような読書のススメがよいのかもしれませんね。
テレビにも触れていますね。
うちの家ではご飯を食べるときはテレビを見せないようにしています。
テレビをつけているとそちらに集中してしまい、食事が進まないというのが一番の理由ですが、あまりテレビを見せたくないというのもあります。
思考停止状態に陥ってしまい、頭が動いていないような様子になるからです。
あと気をつけたいと思っているのは、今ではゲーム、それにスマホというのも子どもの教育上、非常に大きな影響を及ぼします。
スマホは使い方次第ですが、得てしてゲームやSNSに興じる傾向が多いと聞いています。
これに対してどう対処するか、友達は持っているのに自分は持っていない、という状況に対して親としてどう対応するか今から考えておこうと思っています。
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