真の愛情は、母親の「人間革命」によって
真の愛情とは
今まで、子どもの「人間教育」について、親としてぜひとも心がけていただきたいと思ういろいろな根本原則、ならびにその実行の仕方について、お話ししてきました。
そこで、いまここまでたどり着いてみて、では母親としてわが子に注ぐ真の愛情とはいったい何か、という問題についてもう一度顧みてみたいと思います。
まず第一に、そもそもわが子に対する真の愛情とは何か。
一、わが子の一言一行に注意して、わが子の気持ちをよく察してやれること。
二、常にわが子の将来を見通して、真の人間にするには、どうしたらよいかを考えること。そして、そのための躾の方法については、仔細によくわきまえていること。
三、そして、それにはわが子のために最善の持続的努力を重ねて毫も厭わぬこと。
以上をもって母親の真の愛情といえるかと思うのですが、いかがでしょうか。
このように考えていきますと、真の母親の愛情とは、心情と知恵と意志力とがいつも渾然として一つに解け合ったものこそ、真の母親の愛情といえようかと思います。
ですから愛情とはいっても、叡智を伴わないものは、真の愛情とは言えないように、持続的実践の伴わないものも、これまた真の愛情とは言い難いのであります。
改めて申すまでもないことながら、真の愛情とは、子どもの気ままな要求を安易に受け入れたり、わが子の欲しがるものをたやすく買い与えることなどとは、天地の差ほども違うわけです。
したがって、たとえわが子の気にそぐわぬことであろうとも、それがこの子の将来のためにぜひ躾けておかねばならぬと信じるようなことについては、もちろん子どもの気持ちは汲みつつも適切な方法をもって、あくまで持続的に努力を重ねるというのが、真の愛情と言えましょう。
起こされないで一人で起きる子に
しかし以上のように、子どもへの真の愛情とは何か、ということも、一応の説明ならたやすいとも言えましょう。
しかしながら真にそれによってわが子と取り組むということになりますと、それがいかに容易ならぬことかを徹底的に思い知られるのであります。
いま仮に、朝起き一つをとって考えてみましても、それは決してたやすいことではないことは、いやしくもわが子を持たれる方ならどなたにもお分かりのはずです。
もっとも数あるお子さんの中には、親から起こされなくても、朝起きのいいというお子さんもおられましょう。
しかし一般的には朝起きはなかなか容易でなくて、毎朝毎朝わが子を遅らせないように家を送り出すのは、なかなか一苦労なさっておられることでしょう。
朝起きということ一つを躾けることさえ、それほどまでに容易なことではないのです。
ついでに朝起きの躾とその方法について申してみますと、
一、なるべく言葉でもって起こさないようにするということです。
「○○ちゃん、起きなさいよ。もう何時やと思ってんの」とか、「○○、はよう起きんか。学校に遅れるぞ!!」などと、毎朝のように言わねばならぬようでは親子ともにたまりません。
そこでどうしたらよいかと申しますと、
二、子どもたちにもよく言い含めて、目覚まし時計をかけるとか、タイムスイッチのラジオによって起きるようにさせるということです。
こういう躾を、少なくとも小学校4年生、5年生までに躾けておきたいものなのです。
そしてその理由は、親が言葉でもってわが子を起こすのはまずいやり方だというわけです。
ラジオをかけて朝の音楽を流すとか、それぞれ工夫するが良いと思います。
ともかく、このように「朝、親に起こされないで一人で起きる子にする」というこのこと一つだけでも、決して容易いことではないはずです。
そこでついムラムラとして「もう何時やと思ってんの、起きなさいといったら起きなさい!!」と、大声で叱りつけるという結果になりやすいものですが、こうしたことの繰り返しでは「朝起き一つ」さえ、わが子に躾けられないと言えましょう。
絶大な忍耐
こうしたことを一つとってみても明らかなように、わが子の教育には実に絶大な忍耐力が要るわけです。
しかもこうしたこと一つができないようで何が教育でしょうか。
教育には、焦りは禁物です。
教育には、近道はないのです。
一つひとつ小石を丹念に積み上げるよりほかないわけです。
何しろ教育とは、人間の生き方の種まきですから、そうたやすくゆくはずがないのです。
それゆえそこには、隠れた人知れぬ絶大な忍耐心が必要なわけです。
このように、わが子を正しく育てる母親になるためには、その基盤として実に「絶大な忍耐心」が要るわけです。
しかもそうした忍耐心たるや、一人わが子を育てる上に必要なだけでなくて、実に人間として生きる上に、いかなる人にとっても、非常に大切なことは、いまさら申すまでもないことでしょう。
このように考えていきますと、母親としての真の愛情が身に付くためには、まず母親自身が人間としての「魂の開眼」が必要でありまして、いわば母親自身の「人間革命」がなされなくてはならないわけです。
それと申しますのも、わが子のためとはいえ「絶大な忍耐心」というものは、人間革命なくしては絶対に不可能だからであります。
人間革命などと申しますと、何か難しいことのように聞こえますが、分かりやすく言えば「我」を捨てるということだと言ってもよいでしょう。
そして奥さん方として「我を捨てる」一番の着手点は、前にも申したように、ご主人から呼ばれたら、さわやかな声で「ハイ」という返事をなさるということです。
こういうことを申しますと、お奥さん方の多くは喜ばれないでしょうが、しかし母親としての真の「人間革命」にはこれに勝る道はなく、したがってまた「家庭教育」そのものの根本も、ついにこの一点に極まると申してよいでしょう。
ともかく、母親の「ハイ」という「我」を捨てた一語の威力たるや、いかなるものも及ばぬ絶大な卓効を発するものでありまして、これこそ真に知る人ぞ知る無上の真理と言えましょう。
どうして母親の「ハイ」の一語がかくまで偉大な力を秘めているのでしょうか。
それは、この「ハイ」の一語に、諸徳の根源ともいえる「愛敬」という根本精神が込められているからです。
ご主人に呼ばれたときの「ハイ」の返事には敬の一念がおのずからこもり、お子さんに呼ばれたときの「ハイ」の返事には、愛の一念が含まれているからです。
そしてこの敬愛こそは生命の呼応循環の根本原理なのだからです。
ともかく母親にとってこの「ハイ」の実践こそ、母親自身の人間革命の決め手であり、家庭教育の根本対策と申しても決して決して過言ではないのです。
「家庭教育の心得21 母親のための人間学」(森信三著)20より
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愛情というと、子どもを立派に育てたいという一心がそもそもの根源だと思います。
その上で、人様に迷惑をかけない人間としての基本ができている、そうなるために子どもにとって一番いいやりかたはどういうやり方なのか、子どもの性格、気持ちをしっかりと把握し、そして躾の方法を知っていること、そしてそれを不断の実行に移していくことが、親としての務めなんだと思います。
うちの息子は、かなり打たれ強く、例えばテーブルに足を載せてはいけないことを教えようとしても、ちょっと言っただけでは面白がってむしろテーブルに足を載せようとします。
何度もいっても聞かない時には泣かせることを覚悟で、本気でしかるようにしています。
案の上、泣くのですが、その後に泣かせるつもりはなかったと謝ります。
この方法がいいのかどうかはわかりませんが、きちんとダメなことはダメだと伝えないといけないと思ってこの方法でやっています。
そう考えると、いろんな子どもがいるわけで、こどものタイプ別に、どんな接し方をしているのか、これまでの先輩方の叡智を取り入れて、選択肢として持っておけると、やり方の幅は広がりそうですね。本とかでまとまっていそうです。
そして実行には絶大なる忍耐心が必要なわけですが、この本を読んで「ハイ」と言う女性、果たしてどれくらい出てくるのでしょうか・・・。
うちの嫁は私が呼んでも、まず「ハイ」と言わないような気がします。
男性からは特に、このことを言っても妻の気持ちを逆なでする結果になりやすそうなので、本当に慎重に、そして押し付けがましいことなく、妻に気づいてもらうくらいの気構えで伝えていって、初めて何かが変わる、そんなところだと思います。
是非、妻が自らが気づいたようにして「ハイ」と言うようになった実例があれば伺いたいです。
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