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お母さんの祈り

公開日: : 人間教育, 健康, 夫婦, 子育て, 教育

『イソップ物語』にある寓話だと思いますが、北風と太陽とがあって、あの子のマントをどちらが早く脱がすことができるか、競争をしました。

まず北風が、冷たい風を送ったところ、子供はマントをしっかりと握りしめて、飛ばされまいとして、遂に功を奏することができませんでした。

それではと、太陽が、温かい日射しを根気よく送ったところ、マントにしがみつく必要がなくなり、こともなく自然に、マントを脱いだという話です。

これは申すまでもなく、北風の負けで太陽の勝ちです。

北風の冷たい厳しさは、温かい日射しの太陽に及ばなかったということです。

子育てにおいては、冷たい厳しさよりも、温情に勝るものなしというたとえ話です。

先にも申し上げましが、いくら人生の生き方の最低基本としての「しつけの三ヶ条」が大切だといっても、ガミガミ小言を言いつづけ、しかったりしては、かえって親の思い通りしてやるものかと、抵抗と反抗の種まきをすることになりますから、どうか要注意です。

 

切実な願い

なんと申しても、子育ては祈りです。

手を合わさんばかりに祈り続けるより他にございません。

それもあなたのことを、これほど思っているのよと、決してひと言も口にしてはなりません。

ただひたすら祈り続けるより他ありません。

その祈りとは、何も成績が上がりますようにとか、いい学校に入学してくれむすようにとかいうことでなく、

1、どうか人を傷つけたり、人に迷惑をかけたりしない人間になっていただきたい。

2、どうか、人に頼らず、自分の力で生活できる人間になってもらいたい。

これが私の祈りでした。

その上で願わくば、

3、いったん決心したことは、やり抜く人間になっていただきたい。

4、できれば小さなことでもいい、人のお役に立つ人間になってほしい。

と思いつづけました。

なんだ案外、祈りの内容はお粗末だねと思われる方があるかもしれませんが、5人の子供の実相を思えば、目標を高くおける状態ではございませんでした。

詳しいことは申し上げられませんが、大病の子、非行の子、学業不振、人並みについていけない子、そして親たるわたくし自身、劣等生でした。

しかしこうした子らのおかげで、また自分のいたらなさのおかげで、人生のよき師友のご縁をいただき、数多くの教えをいただいたと申せます。

しかし思えば、本書を読んでくださる読者の中には、障害児をかかえて悩み苦しんでおられるお母さんも、なかには一人や二人おられましょう。

あいさつの「しつけ」どころか、人並みに自分で立ち振る舞いができてくれたら、また自分で着たり脱いだり食事や排便さてやってくれたらと、願い続けておられるお母さんもおられましょう。

昨年のお正月、伊勢行きの特急列車の中で、身体障害でマヒ硬直のお嬢さんをかかえたご両親の介護の姿を見させていただきましたが、まったく聖なる菩薩ともいえる親のお姿で、お二人とも実に神々しいお顔つきでした。

苦しみぬき、辛酸をなめつくした挙げ句の果て、すでにそれを越えられた、実に清々しいご心境を垣間見ることができ、今も忘れ得ない光景でした。

 

お母さん方も覚えがございましょう。お産の時、どうか五体満足で産まれますようにと懸命に願い、生まれた瞬間、まず第一に決まってお尋ねになり、ほっと安心なさるのではないでしょうか。

そして何より健康で人並みに成長すればいいと願うのではありますが、次第に成長するにつれ、近所の子やお友達や、親戚の子と較べる心となり、競い合い、いい成績いい学校と、親の見栄も加わって、あらぬ方向へねじ曲げてしまうという心理状態の変化をきたしております。

これもまことに親の立場として無理からぬことと思いますが、やはり原点にもどり比較相対をこえて、この子の人生にとって一番大事なことは何か、どういう人間になってほしいか、という原点の見極めと確認を幾たびとなく重ねることが大切だと思います。

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いのちの実感

ふと最近手にした作家・五木寛之さんの『大河の一滴』を読んで、たいへん感動しました。

なぜもっと早く手にして読まなかったかとさえ思うほどです。

一冊の本との出会いも、必然といえるものです。

先日たまたま本屋に入って別にこれというものがみ当たらなかったので、買って読んでみたのです。

ところが読んでみて、共感・共鳴するところが多く、私の文庫本は赤線だらけになりました。

それほど感動して読みました。

その中で「自分を憎む者は他人を憎む」という章にある言葉です。

「自分を愛していない人間は他人を愛することができない。自分を憎んでいる人間は他人を憎む。自分を軽蔑している人間は他人の命も軽蔑する」ということばです。

自分のいのちを重く感じられないということは、自分の周りの他人のいのちというものの重さを感じられず、軽くしか考えられないのではないか、と思えるわけです。

もっと言うなれば、自らを傷めつける自損行為と、他を傷めつける他損行為とは、一体ではないか。

自殺と他殺とは、裏表の関係ではないか。

だからそういう論理でいけば、自殺が多いということは、他殺行為も多い時代に入っていると思えるわけです。

私どもは「生きているのではなく、生かされている」と軽々しく口にするのですが、それをどれだけ実感してしみじみ感じているかといえば疑問です。

いのちの重さの実感がそれぞれ稀薄になっている時代と思わざるを得ません。

それはどうしてかと考えてみますと、物が豊かになり、飢餓を感じることがなくなっているということが一つの原因と思えますし、今ひとつは、五木寛之さんのことばを借りますと、死の実感の喪失ということですが、死というものの現場に立ち会うことが少なくなったということです。

家族や肉親や、大切な身近な人たちの死というものを、家庭で身近に介護しつつ、実感することはきわめて少なくなり、大方は病院で医師の管理のもとで「ご臨終です」と告知され、あわてふためいて駆けつけて立ち会うか、あとから電話で「亡くなったよ」というふうに知らされるというありさまです。

 

「人生に二度なし」

森信三先生がはじめて拙宅に立ち寄ってくださった昭和41年2月、色紙に書いてくださった言葉は「天地無始終 人生有生死」でした。

これは江戸時代の歴史学者であり詩人でもある頼山陽の漢詩の一節です。

「悠久の天地自然には、初めもなければ終わりもないが、人生には限りがあって、生誕があれば必ず死の終末がやってくるのです」という意味のようです。

森信三先生は、祖父の端山忠左衛門からこの言葉を13歳の時に教えられ、非常なショックを受けたのですが、後日、32歳になって、この言葉が「人生二度なし」の開眼につながったのです。

そして、一代の思想・実践の根底となったのです。

「人生二度なし」とは、言わばごくあたりまえの平凡な言葉ですが、それを真に実感することは、むつかしいことです。

①人生は二度ないのだから、ウカウカして生きておってはならぬ。自分の全力を傾けて生きねばならぬ

②人生二度無し、だから世のため人のため、少しでもお役に立つことをしよう

③人生二度無し、だから必ず終末のその日がやってくるぞ覚悟はいいか。

等々の思いの交錯したものがあります。

しかも年齢を重ねるにつれ、その深まりを感じるのがほんとうと思いますが、若いうちからこの「いのちの実感」ともいうべき「人生二度なし」に気づくことが早ければ早いほどいいのではないかと思われます。

 

こころの開眼

わたくしなどは、全く何事においても人一倍気づきと学びと成熟の遅い人間ですが、それもまたよかったのではないかと思います。

誤ったほうが気づきがより一層鮮明になれるからです。

それはともかくとしまして、いつも申しますように、比較相対の世界のみにかかずらって「横超」の世界を知らなかったのです。

横超とは、親鸞聖人の『教行信証』にある仏教語で、横とびという意味です。

賢愚・優劣・美醜・損得の比べる心をこえるということです。

こうした相対の考え方をこえなければ「いのちの実感」もなく「絶対感謝」もないわけです。

東井義雄先生のことばに、

1、生きているということは、死ぬ命をかかえているということ

2、静かに 平静に しかし 確実にその日が近づいてくる

3、この不思議ないのち それを いま生きさせてもらっている

4、生きている 健康である 手が動く 足で歩ける 眼が見える 耳が聞こえる このあたりまえのことの中に ただごとでない しあわせがある

5、身近な人のご恩がわからなければ 真の幸せには めぐりあえない

実にやさしい言葉で、横超の世界の事をお伝えくださっています。

こうした実感をもちますと、少しぐらい勉強が人並みにできなくても、少しぐらいいたずらっ子であっても、少し身体が弱く生まれついても、気になさらないで、根本的に「いのちの実感」をもち、「生きている」だけで幸せ感を増幅したいものだと思うのですが、いかがでしょうか。

もとより申し上げる資格のない者ですが、わたくしも含めて、親自身、お母さん自身の人間革命こそ、いま一番大事なのではないかと思わずにはおられません。

今日の教育の荒廃をもたらせた元凶は、日教組とお母さんですと、鋭く指摘した女性評論家もありますが、一見少しかたよった見方ともとれますが、静かに考えてみますと、たしかにそうした極論もあながち偏った見方とも思えなくはないと思えるのです。

 

「三つのしつけ」 ー親も子も共に育ちましょうー 第九章(寺田一清著)

 

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息子が産まれてくるときには、五体満足でただただ、健康に産まれてきてくれればそれでいい、と思っていました。

実際に産まれて、ハイハイができたり、歩けたり、言葉がしゃべれるようになり、もう2年6ヶ月(2015年1月時点)が経ちますが、どんどん親バカが発揮されてきます。

子どもが既に4歳用のパズルを一人でできるようになる姿と見て、「この子はスゴイ!」と驚嘆する。

他の子と比較して、もう会話が成り立つ姿を見て、「この子は天才かもしれない!」と期待する。

そんな嬉しい思い。

 

それが馴れてしまうと、「この子はもっとできるはずだから、いい環境に身をおかせよう」と助平心が出てきてしまう。

まさにいまの私がそのような状態です。

ガミガミ言ったり、怒る事はしませんが、期待だけは大きくなってしまっています。

友達も選ぶ必要があると考えて、優秀な子どもが集まるような街に引っ越しをしようかなと考えてしまっています。

息子の義務教育が終わるまでは親として、子どもによい環境を提供したいと思っています。

だから、どんな友達に囲まれてほしいかという親の想いがあって、そのために引っ越しをするというのは親としてやり過ぎなんでしょうか。

気をつけないといけないなと思うのは、環境は用意するけれども、選ぶのは子どもという姿勢だと思っています。

親が無理強いさせて、たとえばおケイコさせたり、あるいは塾に行かせたり、それはよくないと思っています。

環境は用意しておいて、あとは息子がやりたいようにやらせていこうとは思っています。

でも、もしかしたら「こんなに環境を整えたのに・・・」という思いが出てくるかもしれません。

そんな傲慢な事を考えないように、息子が五体満足で育っているだけでも幸せだと、少なくとも誕生日のときには、振り返るようにしたいと思いました。

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