九つほめて一つ叱れ
わたくしは、「立腰こそはわが子の性根を養う極秘伝」として8章でも力説しましたが、人間というものはなんとしてもそれぞれ内に自発的な「やる気」を起こさねば、どうにもならぬのであります。
実際教育とは、内に眠っているこの「やる気」に、火を点ずる努力といってもよいでしょう。
私どもは親としてまた教師として、日夜苦心さんたんしていますのも、いったいどうしたらわが子に、この「やる気」を起こすことができるか、という苦心といってもよいでしょう。
この「やる気」とは、結局、集中力と持続力を意味するわけですが、それを養う道としてはただ一つ、「腰骨の立った人間」にする以外に手は無いと私は確信しています。
これは私が、この80年以上の生涯を通して、自ら体をもって立証してきたのみならず、おおよそ「道」と名のつくすべての道に一貫している身・心相即的真理なのであります。
この「立腰教育」というわたくしの提唱に対して、ご共鳴いただいた全国各地の先生方がそれぞれの学級において、この立腰教育を実践されて、いまや驚くべき甚大な教育効果を挙げておられるのであります。
ところが人間教育というものは、なんとしても家庭がその中心でありまして、家庭における親御さん方の自覚に待つよりほかないわけです。
「やる気」を起こすために、もうひとつ大事なことは「ほめる」ということです。
どうも真面目な人に限ってこの「ほめる」ということに抵抗を感じてなおざりにしがちなようです。
しかし、この「ほめる」ということこそ、「やる気」を起こさせる真の秘訣なのです。
それにはよく子どもの気持ちを察して、その心の機微をとらえ、わずかな芽生えも見逃さないようにしてほめてやることです。
道元禅師の言葉に「愛語よく廻天の力あることを学すべきなり」とあるように、たった一言によって、その人の心に天地がひっくり返るような革命が起こるものなのです。
なかんずく真実の愛に満ちた一言の力は、まさに深甚なもので、愛の起爆剤といってよいでしょう。
そもそも世のお母さんにしろ、私ども教師にしろ、とかくこの「ほめる言葉」の工夫が足りないように思われてなりません。
たとえば
「○○ちゃん!!この頃なかなかやるわね」
「○○ちゃん!!さすがやないの!!」
「○○ちゃん!!なかなか大したものね」
こうした「一言」でさえ、私たちはわが子に対して言葉惜しみをしているようですが、これでどうして家庭教育の中心責任者と言えるでしょうか。
そもそも人を「ほめる」ということは土壌に水をやり、肥料おくような仕事とも言えるでしょう。
また「ほめる」ということは、その芽生えに注ぐ太陽の熱と光にも相当するもので、植物の生長に書かせない第一必須の根本条件なのです。
それとともにもう一つ「ほめる」ということは、相手を受け入れ態勢にさせるコツでもあります。
いわば伏せたコップを上向きにするような卓効を持つものなのです。
我々は相手の心の受け入れ態勢ができていないのにお説教しがちですが、これはまるで伏せたコップに水を注ぐようなもので、辺りを汚すばかりです。
ですから、まず心のコップを上向きにすることが第一の先決問題なのです。
それには、とにかくわが子を「ほめる」ということで、これ一つできないようでは、いくら家庭教育といってみても空念仏です。
話が変わりますが、時には私に対して「先生はあまり人をほめ過ぎるんじゃないですか」とご注意いただくこともあります。
その時、私は断固としてこう言います。
「私がほめる場合は、お上手でもなんでもなくて、わたし自身がその人について、少なくともこの一点に関しては及び難さを痛感している場合です。ですから人様の長所を認める点では、一応人後に落ちないつもりです」
「ほめる」ことと「お上手を言う」こととは同一に見られやすいものですが、その違いは真実心の有無に帰着すると言えましょう。
ところで「叱る」ということですが、それにはまず「人は説教によって育つものではない」ということへの根本認識を持つことです。
どうも世の教師も親御さんがたも2+2は4というように、説教さえすれば相手は聞くもののように考えている人が多いようですが、それがいかに根本的な迷妄かということが分からない限り、真の教育はスタートしないと言ってよいでしょう。
同時にひとたびこの点に気づくと、いかに「叱る」ことが容易ならぬ事かということが、お分かりいただけるかと思います。
ですから叱るということは「三つほめて、一つ叱れ」どころか「八つほめて、二つ叱る」でも、まだほめ方が足りず、結局「九つほめて一つ叱る」くらいでよく、いやこれでもまだほめ方が足りないほどでしょう。
ですからこれによっても、世の母親の方々がわが子に対して、いかにほめ言葉の出し惜しみをしているのかがお分かりいただけたかと思います。
それゆえ極力わが子をしからないでほめる親になるためには、どうしても親御さん方ご自身が、非常に強い忍耐心を持つことが必要だというわけです。
これわたくしがかねてから「子どもの教育には絶大な忍耐心が要る」ともうしているわけです。
およそ忍耐ということは、二つの意味を持っているようです。
一つは物事を持続的にやりとげるということと、もう一つは不平不満や腹立ちを口にしたり表情や行動に表さないで、これを心の中で納消させるという二つの意味を持っています。
ですから、前にも書いたように、この忍耐の徳こそ、あらゆるもろもろの徳行の基盤であって、これができてないと物事を成就することができません。
親御さん方も、わが子の教育上叱ってはならぬところを癇癪玉を爆発し、しばしば後悔を重ねているようではどうにもなりません。
親御さん方がいかに忍耐の徳を身につけるかどうかが、わが子の教育を成功に導くかどうかの鍵と言っていいでしょう。
「家庭教育の心得21 母親のための人間学」(森信三著)16より
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「ほめる」ということは本当に凄いパワーを持っていると思います。
最近、息子が「イヤイヤ」を連発します。
その度に、なだめたり、すかしたりと、いろんな方法で納得させようとします。
その中でもこの「ほめる」ということが子どもにとって一番響く、ということをしみじみ痛感します。
先日、息子(当時2歳)と散歩に行き、家に帰ってきたのですが、息子が「手洗いをしたくない」と言い始めました。
出たな、イヤイヤ、と思いながらどうしようと思っていたところ、息子はおもむろに靴だけは脱ごうとしたんです。
それに気づいて「お!靴自分で脱げるの!すごいねー。」とすかさずほめたところ、息子は満面の笑み。
それから「靴を揃えるのも上手だよねー!」とほめたところ、そのままスムーズに靴も揃えたんです。
それを見届けたところで、「次はなんだっけ?」と息子に尋ねたら「お手て洗う」と素直に言って手を洗ったんですね。
思い返すと、もしわたしが靴を一人で脱げることをほめていなかったら、靴を揃えさせることも一苦労で、手洗いさせようものなら号泣するに違いありませんでした。
そうならなかったのは、靴を一人で脱げることをほめ、息子が上機嫌になった結果、続く習慣的行動がスムーズに実行されたんだと思います。
そんな、えらそうなことを言っていますが、こんなケースは非常に稀。
息子が言うことを聞かないことのほうが断然多いです。
この章を読んで、ほめることの大事さを我が身も振り返って改めて認識。
今後は正面から言うことを聞かせるのではなく、まずは小さなことでもいいからほめることをスタートとしていこうと思います。
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