明日の日本を
五事を正す
いよいよ最終章になりました。
一貫して申し上げてきたことは、森信三先生の教えに沿って、人生の生き方や考え方の最も基本的なことです。
いわば平凡な事で、わかりきったこと、どなたでも知っていることです。
しかし、わたくしたちは、特異なこと、目新しい事に目がいって、最も大事な、基本的なことをついあたりまえのこと、ありふれたこととして軽んじたり見逃しやすいものですので、今一度、あらためて共に再認識したいと思いました。
つい四・五日前、読書会の方々と連れ立ち、150回記念郊外学習と銘打って、27名の方々と、湖西線の安曇川にある中江藤樹記念館を訪れました。
それまでに、松下亀太郎先生にご案内をいただき、中江藤樹先生の墓参りをすまし、藤樹書院を見学、藤樹神社参拝をすませました。
そして記念館に落ち着いたわけです。
そこで昼食をいただいたあと松下亀太郎先生から藤樹先生についてご講義をお聴きしました。
中江藤樹先生は、今なお近江聖人と称えられる方で、没後350年祭を昨年執り行われた方です。
根本の教えは、良知に至るあり、良知とは明徳。
明徳とは、愛敬の心です。
愛敬の愛は、ねんごろにしたしむこと。敬は上をうやまい、下を軽んじたり侮らないことと仰せです。
そして具体的には「五事を正す」と説いてくださっております。
五事とは、貌(ぼう)・言(げん)・視(し)・聴(ちょう)・思(し)です。
「貌」とは表情・態度。
「言」とは言葉づかい。
「視」とはまなざし。
「聴」ときき方。
「思」とは心のもち方、思いやりであります。
この五事は、礼儀作法の根本であるだけでなく、人間の生き方の基本であると思います。
さすがに、文武両道にたけた藤樹先生だけあって、すばらしいまとめだと思います。
あれほど村人まで感化影響を与えられた、人格高潔のすぐれた学者であり、実践者であられたことと思います。
それを思うにつけても、この頃の児童・生徒・学生は少しだらしないのではないかと思うのです。
けさも朝からコンビニの前で、女子生徒がジュース缶をおきタバコをすい、七名ほど輪になってあぐらをかいて、店前の道路の地べたに座り込んでいる姿をみて、暗然たる思いにかられました。
ほんの一部の女子生徒にちがいないとも言えますが、地下街への階段の途中でへたり込んでいる中高生のなんと多いことでしょう。
新幹線の東京からの最終便、若者がシートいっぱいに倒して、寝そべり、おまけに足を折りたたみのテーブルにかけた無作法きわまる姿をみて、嘆かわしい次第です。
礼儀作法は、人間の生き方のルールです。
そのルール違反をあえてするとは、教えられていないため、知らないのか、それとも知っていて行わないのか。
知っていて行わないのは、なぜでしょう。
そこに何があるのでしょうか。
子どもは病んでいる
児童・生徒はもちろん学生までも一種の時代病にかかっていると思われます。
テレビや週刊誌やスピーツ新聞、そしてビデオ。
そうした興味本位の情報が氾濫して、自由に視聴できる状態です。
そして食べ物といえばスナック菓子をはじめ即席のものがコンビニ24時間並んでいます。
このましくない情報化、便利さ、快適さ、スピード化、これが真の文明文化と言えるでしょうか。
しかし今後も止まるところをしらず濁流がとうとうと流れ続けることでしょう。
こうした時流に、一つの防波堤・防潮堤を築くことこそ何より肝心です。
その一つが「立腰姿勢」であり、今ひとつが「三つのしつけ」であるわけです。
日本民族は、東西文明を一番よく受容し、理解できる素質をもった優秀な民族です。そして第一の敗戦により、日本弱体化の方策によって、あらゆる規範が解体されましたものの、勤労と工夫と微妙な感性によって、経済の繁栄国となり、かくてバブル崩壊となり、政治経済・金融・教育面で、なだれ現象を続出しております。
それは「易」の原理のしめすところで、極陽は陰に転じ、いまや極陰に達しようとしています。
それが現下の現象でありますが、戦後50年を過ぎてみて、やっと健全な「見直し」が始まりつつある状態です。
根本においてバランス感覚にたけた日本民族ですから、いまこそ根本原理、基本原理を見直して、よき再生の方向へ必ずや転換するものと信じております。
再起再生のチャンス到来
森信三先生は常に仰せでありました。
わたくしは三つの信仰信念をもっています。
その第一は、宇宙の哲理を信じております。物事の平衡・調和・変化の原則ともいうべきものであります。
そして民族の本質と底力を信じております。したがって荒廃のただ中にあっても、根本において一種の信頼と安心はゆるぎないものがあります。
そして今ひとつは、道縁や物事の出会いには、ただならぬ必然性があるのを信じておりますとのことです。
一方ではこのような絶対信頼をもたれつつも、また一方では、民族の将来について深い憂慮を抱いておりました。
21世紀のはやはり世界をリードしていくべき日本民族の責務を思うとき、果たしてこれで大丈夫なのだろうか。
民族の本質、とりあけ女性までも変質したのではないかとさえ案じられました。
そしてつまるところ民族の将来は、教育にあり、教育の根本は家庭教育にあり、家庭教育の根本はお母さんの考え方にあるとさえ極論されました。
申しわけたことですが、お母さん方の意識革命こそ急務ではないかとさえ思うわけです。
それほどお母さんの力は、偉大なものを秘めており、その感化影響力は、子の代、孫の代にまで三代にわたり及ぼすものがあります。
東井先生の言葉をかりますと、「母こそは、大いなるものの祈りを背負った宇宙意志の実践者」と申されました。
どうか、次代を育てはぐくむ重大使命のお母さん、そうした偉力をもたれるお母さんたち、なにとぞどうかよろしくお願いします。
「三つのしつけ」 ー親も子も共に育ちましょうー 第十章(寺田一清著)
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子どもが切れる、校内暴力をする、家庭内暴力を行う、殺人をする、等々。
子どもをめぐるよくないニュースは日々、事欠きません。
テレビ、ラジオは当然のこと、新聞や雑誌などでも取り上げられています。
私の意見としては子どもたちが悪いというわけではないと思います。
その子どもたちを育てた親たちがきちんと家で躾をしてこなかったことが原因だと思います。
ではその親が悪いのか、というと必ずしもそうともいえません。
親世代も自分の親、あるいは学校でうけた教育をベースに、自分の子どもに対する躾や接し方というのを無意識に取り入れているはずだからです。
そういう意味では、一番の問題は教育システムであり、教育の内容なんだと思います。
知識偏重主義が強すぎて、人としてどう生きるべきか、あるいは親となったときの心構えなどはまったく学校では教えません。
学校は知識を吸収するところだから、といえばその通りですが、そうした場合は、人としてどう生きるべきか、あるいは親の心構えを教えてくれる環境がないことが原因なんだと思います。
昔は寺子屋というところで、知識偏重だけでなく、実際に生活に密着した智慧を子どもたちは学んでいました。
また、昔は特に、夫婦だけでなく、ご近所や親戚が一体となって子どもを育てていくという文化がありました。
そのため、沢山の親と接することができて、その中に理想とする親を見つけることができていたのかもしれません。
さて、現代ではどうしたらいいんでしょうか。
ないアタマを絞って考えてみましたが、
親が一人一人気づいて、教育というものにたいして真摯に学び取り入れ、実践していくことが第一。
第二に、子育てをしている親への感化活動ですね。セミナーを開いたり、時には保育園と協力して紙を手渡したり、あるいはイベントを開催したり。
第三に、子育てをしている意識の高い親が集まって、親としての心構え、日々の悩みに対する対応方法をテレビやラジオ、そういったメディアで配信していくことでしょうか。
何れにしても先ずは親としての考え方を我が身から正していきたいと思います。
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