叡智と実践力
戒・定・慧
前章でお伝えしたように、われわれ人間は宇宙生命の根源力によって、この地上にその「生」を与えられた以上、せいいっぱい充実して生き、自分の生を全うするほかありません。
われわれにとって一番大事なことは、われわれ人間がほんとうに「生きる」ということであり、さらにはお互いひとりひとりが真に生きるということです。
宗教というものの根本も、結局は「われ如何に生きるべきか」という人生の根本問題に他ありません。
そこでわれわれ人間が生きる上において、その人なりの世界観・人生観を持つべきであると信じて、参考までにほんの概観を先にお伝えしたわけですが、この世界観・宗教観は、人それぞれに生涯をかけて、探求し深化させねばならぬわけです。
そして古今の優れた先賢先哲に学びつつ、それを深省し、浄化し続けねばならぬと思うのであります。
これが「人生観」の深省と浄化と言えるでしょう。
さて、われわれが真実に生きるには、そのような世界観・人生観と共に、さらに必要不可欠なものは、古来仏教において説かれてきた「戒」「定」「慧」の三大部門の修養です。
このうち最初の「戒」とは、いやしくも道を志すほどのものは、何よりもまずその日常生活において、それぞれ所定の戒律を守らねばならない、というものです。
この戒については、徳川中期の高僧である慈雲尊者の「十善法語」という古典的な名著があります。
十戒すなわち、
1 不殺生
2 不偸盗
3 不邪淫
4 不妄語
5 不綺語
6 不悪口
7 不両舌
8 不貪欲
9 不瞋恚
10 不邪見
について、人たる道を懇切丁寧到らぬくまなきまでに、説かれています。
思うに、古来仏教において説かれた「十戒」は、時代を超えて人間として守るべき絶対の根本基盤であり、今日の世相をかえりみますと、この「十善戒」が弛緩症状をきたしていると思われます。
ところで次の「定」ですが、定とは現代のコトバで言えば、身心統一の安定ということで、さしあたり「静坐内観」と言ってよいと思います。
そしてこれはその発生の地のインドより、中国を通って日本にも伝えられ、仏教の一部門の禅として現代にいたっています。
この禅の伝統を、日本人の日常生活に合わせて日本化したのが岡田虎二郎先生の岡田式静坐法です。
そしてその静坐法の、最も大事な主軸である「腰骨を立てる」一事を徹底し、自ら実証すると共に、これを、教育の上に活かそうとするのが、私の提唱する「立腰教育」なのです。
知識と知慧
さて「戒・定・慧」という三学の中の慧とは知識慧のことであり、叡智です。
では、この知慧と知識とはどう違うかというと、知識というものはいわば部分的な材料知であるとすると、知慧というものはその人の体に溶け込んで、自由に生きてはたらく知性だといってよいでしょう。
また、別の言い方をすると、知識とは人から聞いたり本などで読んだ知であるとすれば、知慧とは自分で問題を発見し、それを突き止めることによって身についた知といってよいでしょう。
なお、そのような生きた知慧を身につける上で一番役立つのは、そうした知慧をもっている人に接し、その言葉を傾聴することでこれが一番の近道でしょう。
それは書物を読むよりも、はるかに大事なことだと思われます。
それというのは、読むことをもし平面的だとすれば、聞くほうは立体的だからです。
そのため、こちらにその心さえあれば、人生の知慧を身につけた人のコトバというものは、たった一度しか聞かなかったとしても、そこに含まれている生きた真理は、終生忘れがたいものとなる場合が少なくありません。
とはいえ、もちろん読むことを否定するわけでは絶対にありません。
それどころか、できるだけ人生の知慧を含んでいる生きた書物を、われわれは読みに読みたいものです。
しかし、今日、実にたくさんの書物が氾濫していて、そのためにそうした生きた知慧を比較的多く含んだ書物を選択するのが、これまた大変困難な時代になっています。
そのためにも、人は常に、すぐれた「人生の師」を持って、直接・間接をとわず、その指導を受ける必要が大いにあるわけです。
ところが人生の知慧について単に知るというのと身につけるのとは、その間実に天地の差があります。
これを身につけるには、結局人生の苦労というか、さらには逆境の試練というか、とにかくそうした種類の血税というか、「血の授業料」ともいうべきものを納めて、「世の中」という生きた学校において、体を絞って身につけるほかないわけであります。
知慧の種々相
さて、この智慧という名で呼ばれる知の作用にも、考えてみればいろいろの種類があるわけで、さしあたりまず人から「知慧とはどのようなものか」と聞かれたとしたら、私は真っ先に「知慧とは、将来への見通しがどれほどつくかどうかで決まる」と言うことでしょう。
つまり前途のことや将来のことが、あらかじめどれほど見当がつくかどうかということだと言ってもよいでしょう。
今日の言葉でいう先見力の問題ともいえましょうが、では一体どうしたらそういう先見力を身につけることができるかと申しますと、これまた容易ならぬことですが、しいて言えば大局的な観察と極微的な思考の切り結ぶところともいえましょう。
しかし、このような観念的なコトバをはるかに超えて、その人のこれまでの全経験と全知識とが、一瞬にして総合的に発火し燃焼して、周囲を照らすような趣のあるのが、真の叡智だといってもよいでしょう。
それゆえにこそ、知慧というものは簡単に手に入ったり身についたりするものではないわけであります。
次に知慧というものは、物事の「潮時」がわかるということだとも言えます。
それというのも、この現実界の事柄というものは、単に見通しというだけでは、実はまだ足りません。
タイミング、すなわち時機を誤らないということが重要です。
次に大事な知慧は何かというと、それはいわゆる「手の打ち方」というものではないかと思います。
「手の打ち方」とは、言い換えると手段とか方法ということで、これがまたむつかしい問題であって、たとえば「手の打ち方」ひとつにしろ、実はその時その場、その人によって、極微的にはそれぞれ違うわけであります。
つまりそれほど知慧というものは、説明など本来できるものではないともいえましょうが、今少し知慧について申すとすれば、物事のつりあいというかバランスを誤らぬということなども、また知慧の大事な一面だと思います。
実際おの現実界においては、このつりあいというかバランスというものほど、大事なものはないともいえましょう。
さらに物事の程度加減ということでもあって、この現実界では、それがいかに良いこと立派なことでありましても、もしその程度を誤ったとしたら、結局は良いとは言えなくなるのであります。
「森信三先生 父親人間学入門 2」 寺田一清著
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知慧というものは言葉で伝えられるものではなく、知慧を持っている人に接し、そのコトバに触れることが一番とありました。
私自身、やはり人によって気づきを得られ、大きく自分自身が成長したなと感じています。
今まで仕事では成果が全てだと思っていました。
が、以前の職場で出会った上司の人との接し方、仕事の進め方、部下への接し方を目の当たりにし、自分自身触れることによって、成果だけでなく周囲の人のちからをどうやって引き出し、協力を得ていくかということについて体験しました。
これは親と子との関係も同じですよね。
親から子供への教育は、コトバを通じて行われることが多いと思います。
が、生き様とかそういったものは直接コトバで伝えられることではなく親の言行に接することによって、子供が気づくことなんだと思います。
今自分で書いていて気づいたのですが、それって本当に親にとって襟を正さないといけないこと。
いくら口で子供にいいことを言っていても、親の言行を通して伝えられる生き様というのは、一朝一夕には変えられず、そのまま伝わってしまうからです。
そういう意味では子供に対して、「まだわからないから大丈夫だろう」と思っていることが実はコトバでないところで伝わってしまっているんでしょうね。
私自身の生き方、言行について本当に、襟を正そうと感じた次第です。
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